こんにちは!けいちゃんです。
今日は「努力」について書いていきたいと思います。
意識的に努力すれば必ず人生を高められるという事実ほど、人を勇気づけるものが他にあるだろうか。
ーーヘンリー・デイヴィッド・ソロー
人間を人間たらしめているのは、感情でも、気分でもない。思考ですらない。
自分の感情や思考を切り離して考えられることが、人間と動物の決定的な違いである。
この自覚によって、人間は自分自身を見つめることができる。自分をどう見ているか、自分に対する見方、いわば「セルフ・パラダイム」は、人が効果的に生きるための基盤となるパラダイムだが、私たちは自覚によって、このセルフ・パラダイムさえも客観的に考察できる。
そもそも、自分が自分自身をどう見ているか、他者をどう見ているかを自覚していなければ、他者が自分自身をどう見ているか、他者は世界をどう見ているかわからないだろう。
私たちは無意識に自分なりの見方で他者の行動を眺め、自分は客観的だと思い込んでいるにすぎない。
こうした思い込みは私たちが持つ可能性を制限し、他者と関係を築く能力も弱めてしまう。しかし人間だけが持つ自覚という能力を働かせれば、私たちは自分のパラダイムを客観的に見つめ、それらが原則に基づいたパラダイムなのか、それとも自分が置かれた状況や条件づけの結果なのかを判断できるのである。
ここで心理学者のビィクトール・フランクルという人物の衝撃な体験談を紹介したい。
心理学者のフランクルはフロイト派の伝統を受け継ぐ決定論者だった。フランクルはまた精神科医でもあり、ユダヤ人でもあった。
第二次世界大戦時にナチスドイツの強制収容所に送られて、筆舌に尽くし難い体験をした。
彼の両親、兄、妻は収容所で病死し、あるいはガス室に送られた。妹以外の家族全員が亡くなった。フランクル自身も拷問され、数知れない屈辱を受けた。
ある日のことフランクルは裸にされ、小さな独房に入れられた。ここで彼は「人間の最後の自由」と自らなづける自由を発見する。
確かに収容所の看守たちはフランクルが身を置く環境を支配し、彼の身体をどうにでもできた。しかしフランクル自身は、どのような目にあっても自分の環境を観察者として見ることができたのだ。
何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択することができたのだ。
看守たちには行動の自由はあったし、自由に選べる選択肢もはるかに多かった。しかしフランクルが持つに至った自由は彼らの自由よりも大きかったのだ。
想像を絶する過酷な状況の中で、フランクルは人間だけが授かった自覚という能力を働かせ、人間の本質を支える基本的な原則を発見した。それは、刺激と反応の間には選択の自由がある、という原則である。
人間の本質の基本的な原則である選択の自由を発見したフランクルは、自分自身の正確な地図を描き、その地図に従って、効果的な人生を営むための第1の習慣「主体的である」ことを身につけ始めた。
人間は本来、主体的な存在である。だから、人生が条件づけや状況に支配されているとしたら、それは意識的にせよ無意識にせよ、支配されることを自分で選択したからに他ならない。
そのような選択をすると、人は反応的(reactive)になる。反応的な人は、周りの物理的な環境に影響を受ける。天気が良ければ、気分も良くなる。ところが天気が悪いと気持ちがふさぎ、行動も鈍くなる。主体的(proactive)な人は自分の中に自分の天気を持っている。雨が降ろうが陽が照ろうが関係ない。自分の価値観に基づいて行動している。質の高い仕事をするという価値観を持っていれば、天気がどうであろうと仕事に集中できるのだ。
衝動を抑え、価値観に従って行動する能力こそが主体的な人の本質である。反応的な人は、その時どきの感情や状況、条件づけ、自分を取り巻く環境に影響を受ける。主体的な人は、深く考えて選択し、自分の内面にある価値観で自分をコントロールできるのである。
だからこそ主体的(意識的)に努力することが重要なのです。